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日本人の食物の歴史年表

○縄文時代(BC1万年前後~BC4世紀頃まで(新見解ではBC9世紀頃))

この時代、人々は主に狩猟や採集などに基盤を置く生活を送ってました。
人口を保つためということもあるが、当時は出産率、子供の死亡率が高かったようです。

縄文晩期の日本人は、火を使い、初歩的な農耕も行っていました。
地面1メートルほど掘り下げた竪穴式の住居に住み、うりやごま、
いも(サトイモ・ツクネイモ・ヤマノイモ)、そばなどを作っていて、
どんぐりは貴重な食材でした。

豆は人類が農耕を始めるとほぼ同時期から、
稲、麦、トウモロコシなど主食となる作物と一緒に栽培されてきました。

豆は優れたタンパク質源であり保存がき、栽培も容易で、
収穫した後の葉や莢などは土壌の肥料として利用されたそうです。

世界各地 の先史時代の遺跡から豆は発見されていますが、日本では福井県・鳥浜 貝塚の縄文前期(紀元前5,000年頃)の遺跡から出土したリョクトウ(緑豆) が最古の食用豆とされています。

そして、大豆や小豆が大陸から伝来するとともに、
わが国の食文化は大豆の加工利用を中心に目覚ましい発展を遂げました。

弥生時代(BC4世紀頃(新見解ではBC9世紀頃)~AD3世紀頃まで)

国立歴史民俗博物館
2003年5月19日発表では、弥生時代は500年さかのぼります。

BC4世紀頃、現在の海岸線になります。大陸文化の影響を受けて、弥生土器が出現、
水稲耕作が始まり、銅剣・銅矛・銅鐸のほか鉄器などの金属器の使用が始まりました。
日本米の起源は縄文時代にさかのぼります。
中国の福建米が台湾、琉球列島を通って、朝鮮海峡圏に入りました。

この頃、すでに日本人は納豆を食べていました。

239年、邪馬台国の卑弥呼、魏に遣使。
祭政一致、階級制、法律や税制などがありました。

○古墳時代(3世紀後半~7世紀)

ヒエ、アワ、ソバなどの雑穀、干し飯、果物、獣肉、魚が食されていました。

帰化人である智聡の息子、善那(福常)が
孝徳天皇(596?~654)に牛の乳を献上したのが日本の乳利用の始まりだそうです。

般若経の仏典には、悟りを開いた境地とは醍醐のようなものであると記されています。
醍醐とは現在のチーズにあたるもので、「醍醐味」の語源になっています。

その後、仏教思想の広がりとともに肉食はタブー視されるようになりましたが、
乳加工品に関しては、飛鳥時代から平安時代まで、貴族階級では食されていました。
しかし武家の台頭とともに、乳加工品も一時期姿を消すことになります。

609年、小野妹子が遣隋使として送られ、中国大陸から菓子が伝わります。
紀元前1600年頃、乳の文化がアリアン人によってインドへ伝えられ、アジアに拡散。日本には6世紀頃に持ち込まれました。呉の国の帰化人・智聡は、
高麗から手に入った医書により、牛乳は医薬としての効能があることを知りました。
そして645年、智 聡の子である福常は孝徳天皇に牛乳を献上し、「和薬使主」(やまとのくすしのおみ)の称号を賜りました。
この頃から牛乳の加工品である酪・蘇・醍醐(ら く・そ・だいご:現在のヨーグルト・バター・チーズと推定されている)などの利用が始まりました。
当初は食品としてではなく薬として利用されていました。

○奈良時代(710~794)

味噌がわが国にもたらされます。味噌をそのまま舐めてごはんのおかずにしたり、
豆腐や野菜に塗って食べていました。
味噌は、紀元前3世紀ごろ、中国で大豆や麦、酒、塩などを混ぜて発酵させた
「ひしお」という調味料が起源です。
唐から麺の祖先と考えられ る策餅や揚げ物が伝来しました。
宮中で米の粉などを練って油で揚げた唐菓子が食されていました。

720年に成立した日本書紀にミカン科の常緑小高木で日本原産の小柑橘であるタチバナ(橘)が紹介されています。

○平安時代(794~1192)

11~12世紀ごろになると、摂政・関白級の貴族の公式なパーティーでの食事のメニューなどが記録されるようになりました。

当時の宮中貴族の饗宴は、正月の公事や、大臣が任官されたときなどに盛大に行われていました。

貴族の食事は、高杯(たかつき)と呼ばれる置き台に皿をいくつか置いて食材を盛り付けたものが、次々に出てくる形式で、精進なら精進ばかり、
魚鳥を使う時はそればかりで構成するもののようでした。

料理の内容としては、鯛、鯉、鱒、蛸、雉などが単品で皿に盛られ、
四種器と称する調味料(醤、酒、酢、塩)を入れた器が添えられたといい、
料理技術そのものとしては、単純なものでした。

味付けは、醤(ひしお=味噌のようなもの)、
酒、塩、酢などの調味料に素材を浸して食べる、
現在の刺身やしゃぶしゃぶに近い形の単純なもので、素材の新鮮さを楽しんでいたようで、
現在の日本食の原型ということもできそうです。

平安時代から調味料として、塩と酢と酒と醤油の四つが用いられてきましたが、
これを食文化的に見ると、日本の調味料の原点になるものと考えられます。

ユーラシア大陸北部に広く野生しているごぼう、
元来は薬草として中国から10世紀以前に紹介されています。
ごぼうを栽培しシャキシャキした食感と独特の風味を食用としているのは
世界中のなかで日本だけだそうです。

豆腐の起源は、中国前漢の武帝の時代(紀元前一〇〇年前後)、
西域の遊牧民 から伝わったとも、淮南の領主劉安によって発明されたともいわれていますが、
実際に製造が始まったのは唐代の中頃(八~九世紀)とみる説が有力です。
日本への伝来時期は不明ですが、
最も古い記述は平安末期の奈良春日大社の日記に登場する「唐符」です。
最初は寺院の精進料理の材料として広まり、
庶民が口にするようになったのは室町時代以降です。

写真

○鎌倉時代(1192~1333)

汁、煮魚、大根つけもの、半づき米(下級武士)が食されていました。

味噌汁として味噌を食するようになり、
醤油のもととなった調味料「溜」が出現します。

朝廷の下級の官人たちに出されていたオウ飯が饗応の定式でした。
オウ飯とは、飯をワンに盛り付け、海月(くらげ)打鮑、梅干しの三種の肴に、
調味料として、酢に塩を添えたものです。
この時代、精進料理が確立しました。

中国が原産のれんこん。日本へは奈良時代に伝来し、当初は鑑賞用で、食用となったのは鎌倉時代からです。

○室町時代・安土桃山時代(1333~1603)

日本で初めて「醤油」の文字が文献に現れました。
味噌や醤油、味醂、酢といった調味料が、現代のものに近くなり、より料理らしくなりました。
そうめんが登場し、室町から安土桃山時代にかけて、今でいう茶懐石が確立されました。

南アメリカのアンデス山岳地帯が原産のサツマイモが、コロンブスによりヨーロッパに持ち帰られ、
その後中国、沖縄経由で、薩摩(鹿児島県)から江戸に伝わりました。

とうもろこしもサツマイモと同様、原産地は南米です。
コロンブスにより、スペインに持ち込まれ、ヨーロッパ経由で、
日本に天正7年(1579年)に持ち込まれました。

1549年、フランシスコ・ザビエルが布教のため
鹿児島にカステラ、ボール、金平糖、有平糖、ビスカウトなどを携行して上陸しました。

○江戸時代(1603~1867)

イカ塩焼き、油揚げ、しょうが、なす、かぼちゃの煮物、味噌汁、飯(中期上級町人)が食されていました。

一日の総エネルギー摂取量 1860kcal。

一日のたんぱく質摂取量 52g(動物性たんぱく質の割合 5%)

「江戸食」が日本古来の和食の原点です。
1860年頃には、江戸にそば屋が3760軒ありました。

江戸初期、関西の「下り醤油」が主流でしたが、
江戸が日本の政治・経済の中心になり、人口が増加するにつれ、関東のこいくち醤油が台頭しました。

江戸時代になり、豆腐文化が花開きました。
日持ちしない豆腐は地域限定食品であり、
地方によりさまざまな製法や食べ方が生じました。

個性的なものには宇治の豆腐羹、山形の六条豆腐、熊本の味噌漬け、
白山山麓の堅豆腐、鳥取の豆腐ちくわなどがあり、
これらはほそぼそとながら今も伝統食として受け継がれています。

江戸や京都では田楽豆腐や湯豆腐がブームとなり、
豆腐料理を名物とする店も出現します。

豆腐の食べ方に関するうんちくを集めた『豆腐百珍』は続編も出るほどのベストセラーとなりました。
この料理ブックには、二巻合わせ二三八種の料理が登場しますが、今では姿を消したものも多いそうです。

食が豊かになるにつれ、豆腐料理といえば冷や奴や湯豆腐のように、素材の白く、軟らかく、淡泊な味をそのまま生かした食べ方により人気が集中します。

やや硬めの豆腐を姿形残さず、いろんな味を足して調理・加工することの多い中国とは対象的でした。

1610年、奄美大島で甘蔗が栽培され黒砂糖が初めて作られます。

山菜や野草であるタンポポやボタンの花、
ハコベなどが野菜として食されていました。

16~17世紀に、長崎に来た中国人・南蛮人を通して、しっぽく料理の長崎天ぷらなど、
西洋料理のフリッターに近い揚げ物が登場します。

江戸時代の初め頃、温州みかんが誕生します。
その頃、中国から長島に伝わったみかんから、
種もなく、むきやすく、おいしいみかんができていました。

当時、中国の温州地方では良いみかんが採れ、
このすばらしいみかんに、「温州」の名がつけられました。

ジャガイモの原産地は、
アンデス山脈(3000~4000メートルの高地)からメキシコに至る中南米です。

じゃがいもが日本に渡来したのは、約400年前(1600年前後)です。
インドネシアのジャカルタを拠点にしていたオランダ人が、長崎の出島に伝えたのが始まりです。

ジャカルタから運ばれ、「ジャガタライモ」と呼ばれていたことから、
じゃがいもという名前がついたそうです。

かぼちゃの原産地もアメリカ大陸です。
日本に紹介されたのは17世紀でカンボジアから伝わったことから
カンボジアがなまり「かぼちゃ」となったといわれています。

西洋ニンジンは、15世紀にオランダで品種改良され、イギリス、
アメリカを経て江戸時代末期に日本に伝えられました。

武家の台頭とともに、一時期姿を消していた乳加工品が再び現れたのは、江戸時代になってからです。
日本で初めて、牛乳の専門書「白牛酪考」が発行されたました。
「黄門公はもとめて毎年2頭の乳をとり、それで醍醐をつくった」と記されています。

八代将軍徳川吉宗(1684-1751)の時代に、オランダ人馬術教師、ヘンドリック・ゲーズルリングの勧めで、安房嶺岡(現在の千葉県房総南端)で酪農を始めました。

千葉県の牧場に入った白い印度牛から作った「白牛酪」は有名です。
乳加工品、この時代でも庶民の口に入るものではなかったようです。

1856年下田に来日したアメリカ人のタウンゼント・ハリスは、
幕府に「牛乳が欲しい」という嘆願書を提出しています。
1863年に、前田米吉が横浜に日本で初めて牛乳搾乳所を開きました。

八代将軍徳川吉宗(1684-1751)

絵

徳川吉宗は、貞享元年(1684)十月、
徳川御三家のひとつ紀州藩の二代藩主・光貞の四男 として生まれました。
母はお由利の方という女性でした。

生まれるとすぐに 吉宗は、岡の宮(刺田比古神社)の神主の手を経て、家臣である加納五郎左衛門の屋敷へ送り届けられました。

この屋敷で吉宗は五歳まで育てられました。
立場の弱い、部屋住みの四男坊でした。
しかし数々の運命と吉宗自身の才覚が、八代将軍への道を開きました。
色黒で180センチを超える大男に成長し、腕力も相当なもので、手負いの猪を鉄砲で叩き殺したという話も残っているそうです。

日本人とアイスクリームの出会いは江戸末期です。
幕府が派遣した使節団が訪問先のアメリカで食べたのが最初で、そのおいしさに驚嘆したそうです。

そして、明治2年に、日本で最初のアイスクリームが横浜で作られ、文明開化の波に乗り、日本でのアイスクリームの歴史は始まったのです。

・江戸の商売、食物屋 江戸の中期頃は、地方の農村の人たちは、江戸に出て商売をするといった自由は許されていませんでした。

出稼ぎに出てゆくことはしばしばあり、その先で出身地に帰らないで、苦労の末、そこで商いをし始めるという人も現れ始めました。

当時の食べ物の店というのは、
「けんどん」といわれる、担いで歩きながら商うか、屋台で商うのが殆どで、
蕎麦屋も天麩羅や鰻の蒲焼きなどの店も大概がこの形でした。

時代劇に出てくる回船問屋とか呉服屋とかの大店(おおだな)は別ですが、
庶民相手の食べ物屋などは、そうした移動できるようなこじんまりとした商いが多かったようです。

簡便な店であったものの、江戸っ子のせっかちな気質にあって、爆発的に盛んになり、
握り寿司・天麩羅・蒲焼き等が喜ばれたそうです。
この時期江戸っ子は急激に「食い道楽」に変身してゆきました。
その原因は関東で産出する醤油の味が良くなったことにあったようです。
それらの食品と共に蕎麦饂飩も軽便さが喜ばれて流行っていました。

魚売(うおうり)
魚売

江戸時代は漁船が櫓を漕いでいける範囲の近海で充分に魚が取れました。
魚売りも現在と違って、
固定店舗の商いよりも天秤棒の両側に桶を吊って売り歩く棒手振(ぼうてぶり)と呼ばれる行商人が主力でした。
職人の中でも気風のいい、江戸を代表するものであったといわれています。
講談などで登場する一心太助が有名です。

水売(みずうり)
水売

江戸では初夏にもなると、派手な浴衣に鉢巻というさも涼しげな出で立ちで現れ、深井戸から汲んできた冷水に砂糖を加え、付加価値を高めて売り歩きました。市中を勢いよく売り歩く姿は江戸時代の夏の風物詩のひとつであったといわれています。

天婦羅屋
天麩羅屋

おでん屋
おでん屋

団子屋
団子屋

醤油屋
醤油屋

いなり鮨屋
いなり鮨屋

蕎麦屋
そば屋

八百屋
八百屋

○明治時代(1868~1912)

ハクサイ、タマネギ、キャベツ、ピーマン(南米原産)、レタス、アスパラなどは、
明治以降に外国から持ち込まれました。

りんごは明治8年に導入されました。

一般に乳製品の利用が広まったのは明治時代に入ってからです。
北海道拓殖事業の一つとして酪農が導入され、国産チーズの試作が明治8年に始まりました。

明治2年横浜馬車通りで氷と塩とを用いて、
日本で最初のアイスクリーム「あいすくりん」の製造販売が開始されました。
当時の「あいすくりん」の値段は金2分(50銭)で、女工の月給の半分ほどと大変に高価なものでした。 下の絵には「あいすくりん」の幟を立てた町田房蔵の店が見えます。

あいすくりん


明治33年銀座に資生堂が開業、アメリカのドラッグストアをまね、
アイスクリームとアイスクリームソーダの販売を始めました。
資生堂パーラーのアイスクリームは、
卵の黄身とレモンの香りのおいしいフランス風アイスクリームでたちまち銀座名物になりました。
日本に魔法瓶が普及し始めたころで、
魔法瓶を持って銀座までアイスクリームを買いに、という女性の姿も見られました。

チョコレートの歴史-明治編-。

わが国では明治初年に風月堂がチョコレートの製造をやったのがはじめてです。
明治6年(1873)に岩倉具視を代表とする使節団がパリーを訪れた時、
日本人としてはじめてチョコレート工場を見学したという記録が残っています。
その後明治後年まで少量ずつではあるがチョコレートの輸入がつづけられました。
しかし日本人の嗜好に合わなかったり、値段が高かったりしたために一般大衆の受け入れるところではなく、僅かに一部階級の需要を満たす程度に止まっていました。

しかし明治末から大正にかけてようやく日本人の嗜好の変化があらわれ、
国産のチョコレートが市販されはじめました。

明治32年8月、森永商店がクリームチョコレートの製造販売を開始し、
次いで大竹商店や後藤商店等も加工販売しましたが、当時売れ行きはいずれも僅少でした。

明治36年森永が大阪における第5回内国勧業博覧会にチョコレートクリームを出品しており、
越えて42年3月板チョコレートの1/4封度型を製造販売したのが本邦最初の板チョコの生産でした。

また明治43年に至って、芥河洋造氏が米国より帰朝、
日米堂芥河商店の名でチョコレート菓子の製造を始めました。

しかしこの頃の原料はすべて輸入ビターで賄われ、
被覆用の原料(ビターチョコ、スイートチョコ)やカカオバターを輸入、
または輸入元より仕入れて適宣に処方し、加工していたに過ぎなかったそうです。

○大正時代(1912~1926)

大正時代に中華麺が登場しました。
中華麺渡来には様々な見解がありますが、明治末期から大正初期にかけて横浜から始まりました。

1919年(大正8年)にはじめてミルクココアが森永製菓から発売されました。

マヨネーズが日本で産声を上げたのは1925年(大正14年)です。キユーピーが製造元です。

創業者の中島董一郎が農商務省の海外実業練習生としてアメリカに滞在中にマヨネーズと出会い、
帰国後、日本人の体格向上を願って、
当時の輸入品に比べて2倍の卵黄を使った栄養豊富なマヨネーズを販売しました。

当初の売れ行きは、年間120函(600 kg)ほどでした。
マヨネーズに馴染みのない日本人は整髪料(ポマード)と間違えて
髪に塗ったというエピソードも残っています。

その頃の日本にはサラダを食べる習慣はなく、
マヨネーズはサケ缶 やカニ缶など魚介類と一緒に食べられていました。

キューピーマヨネーズ


~日本人の食物の歴史年表~ おわり